フランケンシュタイン11/17夜@東京グローブ座

ひとまず書き殴りのフランケンシュタイン観劇メモ
見てないとなんのこっちゃ感ばっかり。
とりあえずのせとく

・クリーチャー(…とパンフレットには書かれているけれど、劇中は怪物と呼ばれているので以下怪物)とビクターの対比はいわゆる「月と太陽」だと思われる。
怪物は自分が孤独であること、一人であることを恐れる。孤独が自分の不幸だと思っている。そのためともに生きる友達を探す。皆に疎まれた後は、一緒に隠居するための自分とそっくりの醜い女性を作ってくれとビクターに懇願する。ビクターがせっかく作った女を殺した?壊した後は、ビクターが最初に自分を見捨てなければ・・・とビクターと自分の関係性に帰結していく。最後はビクターを相手に倒錯的な主従関係を演じながら、二人で、もとい怪物としては二人で目指しているつもりで、北極へ向かっていく・・・。
・一方のビクターは、すべて自分の中で完結している、自分だけの世界に住む。女クリーチャーが美しくできたのにすぐに殺してしまったのがどうしてなのかよくわからなかったんだけど、あれは「できた」ことでビクターの欲望は完結してしまったからなのかな。だっていらないんだったらそのまま怪物にあげてもいいはずなのに、処分したかった理由ってなんだろう。確かに怪物も出来てすぐ処分するつもりがし損ねた故にこんなことになっている、と反省しているようだったから、すべて自分のコントロール下に置きたいということ?それとも自分の周りに人はいらない?振り返ると、彼は最後まで自分の意思で誰かをそばに置くことはしなかった。美しいエリザベスさえも、結婚してもそばにいることは一度もなかった。 
・しかし、この構図は東山クリーチャー坂本ビクターでも体現されるのかな・・・いやされないんじゃないか、いうのが私の憶測。
周りの影響を受けてレスポンスを返そうとするのは、坂本クリーチャならではなのかなーと。
・つまり坂本さんがビクター・東山さんがクリーチャーをやった場合には、坂本ビクターは自分を相対的にあぶりだすために人を求めて、東山クリーチャーは自分の信念によって仲間を求める構図になるのかなーという予想をしている(これを確かめたいから坂本ビクターも観たいんだけど・・・)
これはそのまま、東山氏と坂本氏の、人とのつながり方のスタンスによるものなんじゃないかと推測している。
・北極とは、世界の終りの比喩?
・最初のシーンの雷はうまかったなー。
・開演前、「あそこに入ってるんじゃない?」「まさか・・・笑」と言い合っていた前の席のおばさま方、するどかったですねww。そしたら開場から開演まであそこにずっと入ってるってこと!?すごい・・・
・怪物の持つ、目には目を、歯には歯を、の論理。これは彼が"吸収する生き物"だからであり、当初はそのまま、優しくしてくれた人には優しく、裏切りを与えた人には裏切り。そしてビクターに嘘を教えられた暁に、エリザベスに嘘をつく。人の汚い部分を正しく学習している。そもそも自分が醜いことだって、周りの反応で学習したわけだし。
・江守さんマジで見えないサングラスとかにしている??転換中、怪物が服を着せていろいろ片付けして、手を引いて座らせてたもんで。
・怪物がいろいろ覚えていく