吐露と詩文

最近の私は、頭のどこかたとえ隅っこにでもひたすらつよしゾーンがあるようなことに気づいて、我ながらそーとーだと思う二千九年初夏。
えーと、飽きもせずまたつよしの歌詞についてちょろっともさっとしたためる。



つよしの歌詞は、根本的に溢れ出しそうな心情の吐露なんだなぁ、ととーとつに思ったわけです。その心に巣食うのは愛であり病であり憂鬱であり現代への憂いであり、そして愛である、と。


私個人の"良い歌詞"は、心情なりメッセージなりなんなりを、私小説の体でそれなりに物語に昇華させている歌詞、そういう意味ではある部分突き放してある歌詞が多いです。
(え、心情吐露こそ詩では、と思う向きもあるけれど、それだけじゃ成立しませんよね。←そういうものなんです!て押し切る作品もあって、その辺は論争に発展してしまう・・・。あー文学難しい)


つよしさんにももちろんそーいう歌たくさんあって、やっぱり私はそっちのほうがすきなんです。


でも、詩じゃなくて吐露なんだって思い直したらとってもすっきりして、そういうもんなのねって納得したかも。

彼はそういう歌だけを作っていける人ではないとも思ってて。激情のまま吐露した気持ちこそがやっぱり彼のメインで、それらが吐き出されたからこそおだやかで構築的な歌も生まれてくるんだってなんとなく感じる。
歌詞を言葉で語りたがるのも、吐露しても吐露しても一向に尽きない思いが渦巻いているからなんだろうなー、ってね。だからといってすべてがいい!ってわけでなくつっこみは遠慮なくさせてもらうけど(笑)、今回絶賛吐露されまくり中の愛はどこに向かっているのかなぁー。ってのがまた妄想の種なわけですね。



今日もアイアイ愛愛で、おかしちゃったりおかされちゃったりなんでしょうか。全く面白くてすごい人だよ。邪推*1できる部分が多すぎるよ。よこしまにおしはかるという意味で。

*1:これを書きながら邪推という言葉を改めて調べたら、私の使ってた意味とだいぶずれていた。いわいる週刊誌のやり口が”邪推”なんですね。