ドレッサー 7/6ソワレ@世田谷パブリックシアター

大泉洋好きの相方と一緒に。実は三谷さんの芝居初めてでした。しかし今回のは三谷さんの脚本じゃないから初めてって言っていいのかもちょっとわからないけど。古典は殆ど見ていないけど、なるほどこれはイギリスの芝居ですな、という印象でした。
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ドサ周り劇団の座長(橋爪功)が錯乱気味になってしまい、舞台監督をずっとやっている鉄仮面のような女性マッジ(銀粉蝶)や芝居でも座長の相手役をやっている妻プッシー(秋山奈津子)は芝居を中止しようとするが、俺が舞台に上げてみせる!座長を舞台に上げられるのは私だけだ!と一人やっきになる付き人ノーマン(=ドレッサー、大泉洋)、そこに絡む老人役者ソントン(浅野和之)、左翼かぶれで煙たがられているがしかし芝居はうまい役者オクセンビー(梶原善)、座長を利用してのし上がろうとする若手女優アイリーン(平岩紙)が絡んで・・・という構図。


話の筋は意外性なく、見ながら(やがてこうなるんだろうなー)と予想する方向を外さないもの。これでもかとたたみかけられる(ほぼ大泉洋のw)台詞とともに、皮肉やペーソスに満ち溢れたやり取りを楽しむような芝居。


この芝居の中で、劇団はシェイクスピアの『リア王』を演じようとしているのがひとつのキーらしい。私にはシェイクスピアの知識がほぼないので、ノーマンがリア王における道化とオーバーラップしているという、肝心なところを気づいてんだか気づいてないんだか、っていうすっぽ抜け具合ではあったんだけど(笑) 分かってなくても、ああなんとなくそういうことなのね、みたいな感覚はあっておもしろかった。
あるシーンで洋ちゃんと浅野さんが息ぴったりでずっこけるシーンがあったのだけど、浅野さんが道化役だったからなのね。と後で気づく。



二階1列目で見ていたので殆ど双眼鏡を覗かなくて(相方にとられていたとも言う)、裸眼で見る限り、最初の鬼のような一人台詞を撒き散らしながらうろうろする彼は、案外いつもの大泉洋みたいでした。んで「ふーん」ぐらいに感じてしまったのだけど、ちょっと双眼鏡で見た彼の表情がものすごく冷めた目をしていて、びっくりしていたら・・・二幕で座長に対する不平をぶちまけるシーンがあって納得。それと同時に、この芝居はもう少し表情が見える席で見たかったなーと思いました。あの表情に気づくか気づかないかで一幕のニュアンスが変わるはず。




奥様も、ノーマンも、マッジも、座長が結局自分のことしか考えてない人で、真の意味では愛情を返してくれないことを知っている。それについて少なからず苦しみ、老いぼれていく彼にもはや期待することもやめ、時にはひどく罵倒しながらも、それでもあえて座長の傍にい続けた。それは何故か? ノーマンは最後の独白で「理由はぜったい言わない」というように吐き捨てるのだけれど、これってやっぱり愛なのだろうか・・・と私は思ったわけです。何でも同性愛方向に持っていっちゃいけないし、そんなのまったく描かれないけれど、でもノーマンがあそこまで苦しみながら傍にいる理由、それは理由のない理由でしかないはず。理由がなく、憎しみを生み出すほどの思い、といったらそれはもうさー。


というようなことを相方に言ったならば、「もう一人妻がいるようじゃあね」みたいな台詞が奥様にあったけど、もう一人の妻なんて出てこなかったし、あれはノーマンのことなんだね、って返ってきた! たしかに・・・ノーマンはかいがいしく、そりゃもうかいがいしく座長の世話を焼くんだけど、本当ならあれは妻の役目なんだろうし。ドサ周り劇団だから奥様も何もあったもんじゃないはずなのに、ノーマンはひたすら奥様、奥様、と持ち上げることで妻の権利を取り上げてしまっていたのかもしれない。奥様とノーマンとマッジ、三人で一人の妻の役目なんだな・・・。



というようにグルグル考える芝居でした。